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アルチザのいちばん長い日

※この回顧録は創業者床次隆志の記憶のみに従って書き留められました。かつて起こった出来事の数々には、もう一方に様々な当事者がおられます。創業者と関係者の皆様の記憶との間に齟齬が生じている場合、これは時間の経過を因とするところであり、悪しからずご容赦くださいますようお願いいたします。

「天気晴朗なれども波高し」。1905年5月27日、日本海海戦の当日、連合艦隊司令長官の作戦担当参謀だった秋山真之は、この短い電文によって自艦隊の勝算が高いことを大本営に伝えました。

自らの会社の命運を賭けた、まぎれもない「決戦」に挑むことになったその日、私は自分たちがこの戦いに勝利することを全く信じることができませんでした。それほど厳しい戦いだったのです。ではなぜ勝算のない戦いに挑まざるを得なかったのか。そしてその「奇跡の勝利」はいかにしてもたらされたのか。

社外の方にとっては「何をそんなに大層な」「そんなにすごい会社かよ」と思われることでしょう。
その通りかもしれません。ただ、その日がなければ、私たちは創立30周年という節目を迎えることはできませんでした。その意味だけで、この30周年のサイトに、私個人の経営者としての自戒の念を込めた回顧として“その日"のことを書き留めることをお許し願いたいと思います。この稿がアルチザの次の世代を担う人たちに、ありがちな「前世代の武勇伝」としてではなく、「未来への教訓」として読まれることを願いながら。

無線技術の会社としての地歩を固めた日。2009年7月16日。その日はアルチザの30年の歴史上、間違いなく「いちばん長い日」でした。

2001年7月 東証マザーズ上場。喜びも束の間、ITバブルが崩壊。

その日に続く話は、アルチザが東証マザーズ市場に上場を果たしたところから始めたいと思います。
2001年、NTTドコモは、W-CDMA方式による第三世代移動体通信サービス「FOMA」を、世界に先駆けて開始しました。アルチザは、W-CDMAのコアネットワークインタフェースIuに対応した交換機用過負荷試験機と、Iubと呼ばれるW-CDMA無線アクセスネットワークのインタフェースに対応した過負荷試験機の両方で売上と利益を大きく伸長させ、同年7月、東京証券取引所に新設されたばかりの「東証マザーズ」に新規上場を果たしました。新しく生まれたベンチャー企業向けの市場に、モバイル通信インフラのテスターメーカーとして新規上場を果たしたアルチザに大きな注目が集まったことはいうまでもありません。

しかし、好事魔多し。その直後、アルチザは大きな業績不振を経験します。きっかけは、いわゆる「ITバブルの崩壊」でした。
実はそれ以前から、私は会社の将来について漠然とした不安を抱えていました。アルチザの製品が「W-CDMAの無線アクセスネットワーク」という特殊な技術分野に対応していたとはいえ、その技術領域がワイヤーライン(有線)をベースとしていたことから、いずれ陳腐化してゆくことを恐れていたのです。
その不安を解消する手立てが何も見つからぬうちにバブルがはじけ、当社の顧客である通信キャリア、大手通信機器メーカーの投資抑制も顕著になりました。私たちの製品の納入価格に対する下げ圧力は徐々に強くなっていきました。

そんなタイミングで競合企業が安価なLINUXサーバーを応用したプロトコルテスターを市場に投入してきたのもこたえました。状況は悪くなるばかりでした。

ワイヤレス技術への転進を決断。最初のチャンスで無線の「壁」を痛感。

『低価格競争に巻き込まれないために残された技術領域は無線通信しかない』。その期に及んでようやく踏ん切りがつきました。『無線技術は難易度が高く、競合も少ないため値下げ圧力にも強いはずだ』。
腹は決まったもののどうすれば無線技術を手に入れられるのか。答えはなかなか見つかりません。焦りは募るばかりでした。しかし「念ずれば通ず」です。2004年、アルチザにチャンスが訪れました。

2000年代半ばになって3GPPが、3.5Gの最初の技術であるHSDPA(High Speed Downlink Packet Access)という技術仕様を発表しました。それを背景に、2004年7月、移動体通信キャリアに基地局を提供する大手国内通信機器メーカーB社から、HSDPAに対応した無線加入者側をシミュレーションする過負荷試験機を開発してみないかという話をいただいたのです。

「これで無線通信技術への挑戦ができる」。私は大いに興奮しました。しかし、自分たちに無線通信技術がないという課題が解決したわけではありません。何とかそのノウハウをもつ会社を探しだし、ハードウェアプラットフォームを外注することにしました。ところが頼みの外注先の製品開発が思ったように進まず、大きく納期遅延を起こし始めました。役員会でプロジェクトの中断を求められましたが、どうしても無線での実績を作りたい私は、役員会で自身の進退をかけてまでプロジェクトの続行に執着し、プロジェクトリーダーであった実弟・直之(現社長)の奮闘もあって、どうにか納品にこぎつけることができました。

ただそれは約束の納期を半年以上も過ぎてのことでした。B社に多大なご迷惑をかけたことはいうまでもありません。やはり無線技術の壁は厚く、高いものだと痛感させられたプロジェクトになりました。

なぜ?またしてもオファーが。周囲の反対を押し切りLTEに挑む。

プロジェクトが完了した当時、社内には「無線開発はもうこりごり」という雰囲気が漂っていました。
社内外に及ぼした影響を考えると、それは当然のことでした。しかし、少なくとも私だけは諦めていませんでした。『無線通信技術に活路を見出さなければ、アルチザに明日はない』。諦めるわけにはいかなかった、というほうが正確かもしれません。

そんな諦めの悪い私に、またも次のチャンスが訪れました。2006年9月、アルチザが前回ご迷惑をおかけしたB社から「LTE試作実験システム」の端末側シミュレータの開発依頼を受けることになったのです。当時3GPPにおいて技術仕様の策定中であった4G LTEの先進性を外部に向けてアピールするための大切なプロジェクトでした。
もちろん『前回大変なご迷惑をおかけしたのにどうして?』と不思議には思いました。しかし、B社が無線に関する多くの技術を指導してくれるだけでなく、さらに開発費まで負担してくれるという、俄かに信じがたいほど魅力的な話だったのです。

要求は4x4 MIMO(Multi Input Multi Output)アンテナで、下り300Mbpsを無線伝送で実現するという相当に難易度が高い仕事でした。当時のイーサネットは100BASE-Tが主流で、GbEが出始めたばかりのころでした。300Mbpsは、当時の無線技術で実現する伝送スループットとしては驚異的なスピードでした。

もちろん新しい技術への挑戦です。大きなリスクが伴うことも十分に考えられました。他の役員たちや開発エンジニアは「まだ懲りないのですか?」とばかりに私に反対意見を突き付けてきました。
にもかかわらず、私はその仕事を引き受けることを決めました。反対意見を覆す論理的な材料などあるわけがありません。「会社の将来のため」という一点だけで押し切ったのでした。後にこのプロジェクトがなぜ“前科”のあるアルチザに依頼されたのかがわかります。先んじて依頼を受けた各社は、冷静にこのプロジェクトの難しさを計り、丁重に辞退されていました。“好条件”での当社へのオファーはそういう事情もあったようでした。

アルチザ史上「最も過酷なプロジェクト」は「その日」への伏線となった。

結果からお話すると、このプロジェクトはメンバー全員に大変な苦労を強いることになりました。創業以来アルチザが取り組んだ最も過酷なプロジェクトとなってしまったのです。しかしこのプロジェクトはまだ「いちばん長い日」への序章に過ぎませんでした。

プロジェクトの期限は2007年7月。新しいハードウェアプラットフォームを開発している時間はありませんでした。当時手に入る最大クラスのFPGAを4個搭載した市販のFPGAボードを採用し、これにディジタルベースバンド処理をさせることにしました。また、上位プロトコルを実装するハードウェアも、下り300Mbpsが処理可能な、高性能なプロセッサーを搭載したものを選ばなければなりませんでした。こちらは当時手に入る最高のDSPを搭載したボードを特注しました。

ハードウェアの選定を終え、2006年9月、プロジェクトが本格的にスタートしました。プロジェクトメンバーは開発作業を立川本社で行っていましたが、最初数ヶ月で早くもスケジュールが遅延し始めました。B社担当者が立川本社に常駐するようになり、日々督励を受けますが、遅延を回復するまでに至りませんでした。業を煮やしたB社からはメンバー全員約10名をB社開発室に常駐させての作業を提案されました。2007年7月のことでした。開発現場の近くに3LDKのファミリーマンションを2部屋借り上げ、朝から夜遅く、場合によっては、明け方まで開発作業を行い、その後、部屋に戻って数時間の仮眠をとった後、再び作業に戻るという、文字通り「不眠不休」の作業が続いたのでした。納期厳守のプレッシャーは強く、メンバーたちは、土日の休みもほとんどなく働いてくれていました。工数が足りず補強のためメンバーの追加が相次ぎ、とうとう立川本社にはエンジニアがほとんどいなくなってしまったほどでした。

私は、自分が大変なことを始めてしまったことを後悔していました。しかし、事ここに及んでは後には退けませんでした。私はメンバーたちに「ここは、何とか頑張って乗り切ってくれ」と祈るように声をかけるしかなく、そのために、ことあるごとに現場に足を運び、同じ時間をメンバーたちと共有しました。
しかし、昼食に誘い、栄養ドリンクを差し入れたり、私には正直、それくらいしかできることがありませんでした。申し訳ないという気持ちに苛まれながらも、私はその時間、みんなの邪魔にならぬよう開発現場の片隅で息をひそめながら、ひたすら本を読んでいました。それは、司馬遼太郎の長編「坂の上の雲」を全巻読み終えるほどに長い時間でした。

最初の納期から遅れること約半年、プロジェクトメンバーは、この過酷な作業を、何と一年近くも続け、時には顧客から叱責されながらも、製品を完成させました。しかしこの納期遅延により、B社、エンドユーザである大手通信キャリアA社には大変なご迷惑をかけてしまいました。

納期遅延による顧客への影響の重大さはわかっていたつもりでした。しかし、それと同時に、まだ世に出ていない「新しい技術」を、もたつきながらも最後まで投げ出すことなく、要求仕様を満たす製品を納入できたことで、自社の社員の粘り強さを大いに評価している私もいました。

これが、後の「いちばん長い日」への伏線となるほど、自社の“信用”に大きな負の遺産を残すことになるとまでは、その時には考えてもいませんでした。(後編に続く)

後編に続く
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